昨年2018年に、長年撮り続けきた弁造さんとの日々を写真集『弁造 Benzo』としてまとめ、同じ時期に銀座ニコンサロンで「庭とエスキース」という展覧会を開きました。
写真集『弁造 Benzo』が弁造さんの「生」を中心にして編んだのに対し、昨年開催した個展「庭とエスキース」は、弁造さんが大切にしていた庭とエスキースというふたつの世界から、弁造さんという人間の“生きること”をもう一度考えてみようと制作したものでした。それは、消えていく「存在」についてを考える機会でもあったと思います。
そして、この2つの作品を世に送り出した後、僕は再び弁造さんのことについて考える日々を続けました。
それが今回上梓することになった『庭とエスキース』(みすず書房)となります。
写真集が弁造さんの「生」であり、写真展が「死」を見つめたものだとしたら、今回の本は「記憶」というものになるのかもしれません。昨年一年、僕は弁造さんとの日々を思い起こし、再び弁造さんとあの美しい庭を歩き、小さな丸太小屋のイーゼルの前で絵筆を持つ弁造さんと対話を続けながら言葉を綴りました。
人は生きるなかで無数の記憶を生み続けています。弁造さんのことを書きながら僕は考えていたのは、記憶の行方でした。誰かの記憶が持ち主から離れていったとき、行き着く先はどこなのでしょうか?ただ消えてしまうのでしょうか?
野に咲く花のように消えていくものはいつも美しいものばかりだと思います。でも、渡り鳥のように旅を続けていくものたちもまた美しいものだと思うのです。
僕は弁造さんの記憶を浮かべながら、それを携えることで生まれてくるものをずっと待ちたいと思っています。
2019年4月16日 奥山淳志
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